ひそひそぼっち

  • 2017-04-03

「La La Land」と「あり得たかもしれない過去」について

 話題のミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」を観てきました。
 さっそくその感想を書こうと思い、ネットで映画情報を渉猟していたときです。
 なんだかおかしな噂を仄聞しました。
 現在SNS上で「La La Land harassment」とも呼ぶべき投稿が横行しているらしいのです。
 ───「ラ・ラ・ランド・ハラスメント」
 略して「ララ・ハラ」。
 これがどういう嫌がらせかというと、

 いい年ぶっこいたオヤジがうっかり「ラ・ラ・ランド」を観て感動してしまい、それだけにしときゃあいいものをSNS上で若い女子たちをつかまえては恋愛マスター気取りで、
「カップルでこの映画を観にいくと彼氏が元カノを思いだして破局するぞ!」
 と説教しまくる。

 というたいへんウザくてキモいハラスメントのようです。  
 オヤジってほんとバカですね(笑)。
 ちなみにぼっちも50をすぎたオヤジです。
 でも「説教」だけはいたしません。
 ですから若い女子も安心して読んでくださいね。
(でもラストに言及しているので、これから観ようと思っているかたは観賞後に読んでくださいね)
 それでは始めます。



 今回ネットで初めて知ったのですが、「La La Land」とは、

「she's living in la-la Land……hahaha」
「あの娘はいまララランドに住んでっから。(だからなにいっても無駄じゃね?)」

 というように「実現できるはずのない夢に浮かれまくってタリラリラ状態」を指すスラングのようです。
 監督のデイミアン・チャゼル君は、この「タリラリラ状態の男女」と映画の舞台である「LA(ロサンゼルス)」をかさねてこのタイトルを選んだんですね。
 そのタイトルの含意を汲むように映画は、パッとしない女優志望の女の子と、同じくパッとしない(1950年代のジャズに執着した)ジャズピアニストの恋と夢との顛末を、ただそれだけを描いています。
 でもストーリーはあんがい定型的です。
 アクシデント的な出会いがあり、お互いに反発をおぼえながらも魅かれていき、やがてそれぞれの抱く夢に共感し、励まし合い、一緒に暮らすようになるんだけれど、そのうち夢と恋とがちぐはぐになっていって破局してしまう───という、まあ、青春恋愛映画の黄金パターンを踏んでいます。
 チャゼル君はそんな若い男女の成り行きを「冬」「春」「夏」「秋」「そして5年後の冬」というふうにきっぱり5分割して描いていきます。
 でも、映画全体の印象はそれほどタリラリラではありません。

 この映画に興味を抱いた方々の多くは予告編なんかをみて「ジャズ風にアレンジされた軽快な楽曲に乗って、若くていきのいいいアクターたちが群舞しまくるイケイケミュージカル映画」を想像していたと思います。
 ぼっちもそうでした。
 ところがこの映画は前記構成上の「春」の章で、───つまり目の覚めるような黄色いドレスをまとった(ミア役の)エマ・ストーンちゃんと(セブ役の)ライアン・ゴズリング君が薄暮のマウント・ハリウッド・ドライブでおしゃれにタップ&ダンスを踊り、そのあと閉館後のグリフィス天文台で「無重力ダンス」を舞うファンタジックな場面で、───「イケイケミュージカル的要素」はほとんど消えてしまいます。
 ついでにいうとこの映画の「つかみ」でもある渋滞中の高速道路上での大群舞や、ミアちゃんがブルーのドレスをひらひらさせて歌って踊るパーティー場面も、楽曲の「Another Day of Sun」や「Someone in the Crowd」がかっこいいもんだからついつい見入ってしまいこの映画のはなやかさを強く印象付けますが、それらは(正確にはその後のセブとセブ姉とのやりとりまでをふくめて)本筋のドラマとほとんどコミットしていません。
 つまり冒頭の20分ほどがなくても全然成立しちゃいます。
 早い話、映画的には「無駄なシーン」なのです。
(高速道路群舞は舞台となる街を「ただ説明しているだけ」だし、ミアちゃんのパーティーも雰囲気だけ。とくにミアの友人たちは「ドレスの色目をカラフルにするためだけ」に、セブ姉もセブのキャラと現状をやっぱり「説明するためだけ」に登場させられています)
 つまり冒頭からミアのパーティーまでは、この映画をミュージカル映画にするためだけに撮られたミュージカル場面であり、チェゼル君がどことなくミュージカルというジャンルに「淫している」という印象をぼっちは受けてしまいました。

 2人が出会ったときセブが弾いていた曲「Mia & Sebastian’s Theme」は、美しく果敢なげな哀調を帯びています。
 そしてミアとセブのコール&レスポンス曲である「City of stars」の歌詞の後半はミアが即興で作詞したような体裁になっていて、その曲がやたらといじらしく切ないのです。

(セブ君)♪ この街はぼくを照らしてくれるのかな?
(ミアちゃん)♪ だいじょーぶ♡ あなたはずっとずっとキラキラしてるよ♡

 「春」の章の途中あたりから、その2曲のインストルメンタルがたびたび挿入されるようになり、映画はたいへん「静謐な雰囲気」をただよわせていきます。
 つまり監督のチャゼル君は我々を「これはタリラリラなイケイケミュージカルなんだよーん♪ ヨロピクねー♪」と釣っておきながら、本当のところ「愛をとるか、夢をとるか」という切実な「芸術と愛との関係」を探っているようなのです。
 え?
 マジメか?
 この映画はマジメなのか?
(しかもこの映画はじつは120分以上の長尺なんです)
 おいおい、これじゃぜんぜんタリラリラじゃねーじゃん!
「La La Land」じゃねーじゃん!

 ざけんな、チャゼルよ!

 そういいたくなった方の気持ちもわからなくもありません。
 でもね。
 それはそれとしてチャゼル君ってなかなか手ごわい監督だとぼっちは思いました。
 我々はかっこいい楽曲とともに「タリラリラ~♪」っと結ばれてしまったセブとミアに、すでに好感を抱いてしまっています。「できればさえないこの2人にハッピーになって欲しい」 と心の中で祈っています。
 ですからその後、この2人が夢を巡ってジタバタするさまを息を吞むようにしてみつめることになります。 
 ぼっちがなにより感心してしまったのは、チャゼル君がこの2人の「別れの場面」をスパっと切ってしまっていたところです。
 チャゼル君はなぜこの映画でもっともドラマチックな展開が予想される「別れの場面」を削除してしまったのでしょう?

 ミアは、金のためにそれまで執着していた1950年代のジャズを捨てて電子楽器を奏でるようになったセブの変節に納得できません。
 でもそれはセブがミアのために少しでも金を稼ごうと思って始めたことでもあるのです。
 口論の末、セブはついにミアにこう吐き棄てます。
「君は優越感に浸るために売れないぼくと付き合っていたんだ!」
 セブ。
 おい、セブよ。
 それをいったらおしまいだぞ。
 だいいちミアはそんな女の子じゃない。
 君はそのことを一番よくわかっていたはずじゃないか!
 案の定、傷ついたミアの大きな(大きすぎる)グリーンの瞳にみるみる涙があふれていきます。
(ぼっちはミアちゃんがあんまりかわいそうで、デリヘルさんが印刷されたポケットティッシュを2枚も使って涙を拭いました。)
 といってこれが「別れの場面」ではありません。
 その後、セブは故郷に去ったミアを追いかけて、最後のオーディションを受けるよう説得します。そうしてそのオーディションを受けることとなったミアは、面接の最中に女優として「不思議なインスピレーション」を授かることになります。
 面接後、憑き物が落ちたようなミアとセブとのささやかな励まし合いがあり、(もしオーディションに受かったらミアは長期間パリに渡って撮影することになります)それで「秋」の章はあっさり終わってしまいます。
 そして映画は最終章である「5年後の冬」へと突入していくわけなのですが─────。

 5年後のミアは、撮影所内のカフェ店員も息をのむような大スターとなっています。
 帰宅するとそこは5年まえのアパートとは段違いの大邸宅です。
 しかもそこには年上の(プロデューサー風の)夫と乳飲み子が待っています。
 このときなって我々はようやく「ああ、ミアはセブと別れちゃったんだ」と確信するにいたります。
 でもどうして?
 そう思っても監督のチャゼル君はきっぱりとその「説明」を拒否しています。
 となると我々はすでに提示された情報を頼りに、自分なりに2人が別れた理由を推察するしかありません。

 おそらくミアはあのオーディションに合格し「パリで撮った映画」で才能を開花させ、スターへの階段を駆け上ったんだろう。
(もちろんそれはセブの「助言」があったからです)
 でも、売れたら売れたでセブとの間に「格差」が生じてしまったのかもしれない。
 あるいはミアは女優業を優先させるため、変節したセブを捨ててしまったのかもしれない。
 いずれにしてもミアは正攻法で自分の夢をつかみとっている。
 でもセブは夢に対して自分をいつわっていた。
 セブはそのやましさに耐え切れなくなって自分のほうから去ったのかもしれない。

 我々があれこれそんなことを考えているうち、映画内のミアはたまたま夫婦で通りかったロスアンゼルスの街角でなつかしい音楽を耳にします。
 その店の壁には「ミア主演の新作ポスター」が貼られ、かつてミアがセブのためにロゴデザインした「セブス(セブの店)」の看板がかけられています。
 もちろんここはセブの店であり、同時にセブがミアへの想いをひきづっていることが暗示されています。
 セブはセブで、セブなりの(ささやかな)夢を実現させていた────。
 ミアは導かれるようにその店の中にはいっていきます。
 そこは(いささか時代遅れの)スタンダードジャズを生演奏している店で、思った通りセブはその店のオーナーとして舞台に登場します。
 そうしてミアとセブはその店の客とオーナーとして無言の再会を果たすことになり、───見つめあう2人の顏に衝撃と動揺が走ります。

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 そのうちセブはゆっくりとピアノのまえに坐り、ミアに語りかけるようにあの曲───2人が出会ったときに自分が弾いていた曲、「Mia & Sebastian’s Theme」を奏で始めるのです。
 そして、その演奏をきっかけにして、映画はほとばしるように2人の「あり得たかもしれない過去」を映し始めます。

 もし初めて出会ったとき、直感にしたがってかたく抱き合いキスを交わしていたら2人はいまとは違う人生を歩んでいたのかもしれない。
 二人はキラキラしたLa La Landで愛を蕩尽し、やがて結婚して子供をもうけ、いまもハッピーに暮らしていたのかもしれない。

 我々はまず(チャゼル君によって)「2人が別れた理由」を自前で想像させられています。
 そのせいでこのときの映像が「自前で想像したミアとセブの別れの場面」に、痛切な「上書き」を迫ってきます。
 つまり「あり得たかもしれない過去映像」が、苦い悔恨を呼び起こします。
 なにしろ「2人が別れた理由」を自前でつくっているわけですから、「悔恨」もまた「まるで自分で体験している」みたいに錯覚してしまうわけです。
 「もしもあのとき、ああしていれば、おれたち(わたしたち)はいま………?」という疑問符がグサグサと胸に刺さっていたたまれません。
 つまり我々はわざわざ「別れの場面」を削除したチャゼル君の術中に、まんまとはめられてしまっているわけです。

 といっておいて水を差すようでなんなんですが。
 チャゼル君が最後に「決め球」みたいに投げ込んできたこの「あり得たかもしれない過去映像」って映画術としてそれほど斬新な方法なのでしょうか?
 これまでだって「あり得たかもしれない過去問題」は、映画(とくにタイムスリップもの)や小説で何度も何度も、(それこそ飽き飽きするくらい)扱われてきました。
 方法としてこれはかなり使い古された手だといわざるを得ません。
 すれっからしのぼっちが、そんなやわな作戦に乗るはずがありません。
 にもかかわらずぼっちは、この場面であえなく涙腺が決壊し、年甲斐もなくしくしく泣きじゃくってしまいました。
(サラ金会社が印刷されたポケットティッシュを4枚も使って涙を拭ってしまったくらいです)
 となるとぼっちは、映画「ラ・ラ・ランド」のいったい「なに」に急所を突かれてしまったのでしょう。
 チャゼル君はこの映画に対するインタビューでこんなことを述べています。
 
「愛について語るとき、愛自体が主人公の2人よりも大きな存在でなければいけないとぼくは思う。2人が一緒にいるいないに関係なく、愛はまるで3番目の登場人物のようにそこにあり続けるんだ。現実とは全く別の次元でね。主人公の2人の関係が終わってしまったとしても、愛はそこに永遠に存在するということ。ぼくはそれが美しいと思う。」

 すでにハートが角質化してしまっているぼっちは、チャゼル君のように「当人たちが別れてしまったあとでも、現実とは別の次元で永遠に存在し続ける愛の存在」なんか、なーんも信じていません。
 たとえば昔付き合っていた彼女と数年ぶりに再会したときなど、ぼっちは「かつて存在していたかもしれない愛」が、いかに不確かででたらめで不誠実なものだったのかを何度も痛感させられています。
 ぼっちが相思相愛だとかたく信じていた時期、じつは相手はべつの男に気をとられていたり、なんなら元カレと通じていたり、下手すりゃやっちゃっていたり、こっちが絶好調だった夜はしばしば相手にとっては最悪の夜で、忘れられないビーチフルな思い出を相手は完全に忘却しており、またその逆のケースもあって、いまさら調子よく「永遠に存在している愛」など説かれてもその手は桑名の焼ハマグリです。
 そうなんです。
 この現実世界では「永遠に存在する愛」などなかなか見つけられるものじゃないんです。
 きっとチャゼル君だってそんなことはよくわかっているんだと思います。
 でも、だからこそチャゼル君は映画の中に、───この「La La Land」の世界に、その愛を「リアルに目に見える存在」として描きだしてみせたかったのではないでしょうか。
 芸術とひきかえに誰かと別れてしまったとしても、その愛は残る。
 それを描くことによって、もしかしたらチャゼル君自身も救われたかったのかもしれません。

 ためしにみなさん。
 ここでもう一度、映画の中で「あり得たかもしれない過去」が投射され始める場面を思いだしてみてください。
 エマとセブがひとことも言葉を交わさないまま、「出会いの曲」をきっかけにして始まるあの映像────「あり得たかもしれない過去映像」は、かつて恋人同士だったセブとミアが、

 「いままさに2人で同時にみている夢」

 のように感じませんでしたか?
(もちろんチャゼル君は観客がそう感じるようにこの場面を演出したのだと思います)
 数年ぶりに再会した男女が、「同時に同じ夢をみる」なんてことは現実には起こりません。
 それが「悔恨を含む夢」であったとしても、そんなことは起こらないんです。
 少なくともぼっちには、

  断固として! 絶対に! ただの1度も、起こりませんでした!

 にもかかわらずセブとミアにはそういうケミストリーがふいに起こったのです。
 しかも我々は「2人が別れた理由」を自前で想像させられたせいで、まるでそれが自分自身に起こった「ミラクル体験」のように感じとってしまったんですね。
(で、この瞬間、オヤジたちはチャゼル君にだまされて恋愛マスターに変身してしまったんですね)
 つまりこのときの「過去映像」にはほろ苦さとミラクルが、めくるめくように乱反射していたのだと思います。
 だからこの映画の結末は悔恨に胸をかきむしられつつ、でも同時にそれが「あり得ない愛を確認する奇跡的なハッピーエンド」にもなっていて、我々はその「ほろ苦さとミラクルとの振幅」に心を揺さぶられてしまったのですね。

 最後に少しだけミュージカル映画についての私見を述べて終わりにしたいと思います。
 ぼっちの極私的アメリカ映画史にしたがえば、ミュージカル映画というジャンルは1974年に「ザッツ・エンターテイメント」という「MGMミュージカル映画のアンソロジー」が公開された段階で、アメリカ映画界からひっそりと引退したのだと思っています。
 きっと「ザッツ・エンターテイメント」というその作品が、かつてとびきり華やかな大活躍を果たしたMGMミュージカル映画群を表敬し、記憶しておくためにはかられた引退セレモニーのような役割をはたしてしまったんですね。振りかえると、この映画の公開以降、人々のミュージカルに対する期待値が急速に冷え込んでいったような気がします。
 スコセッシもコッポラもミュージカルに挑戦しましたが成功しなかったし(というかどちらも作品の出来とは関係なく興業的に大失敗しました)、あとは「ロッキー・ホラーショー」とか「ファントム・オブ・パラダイス」とか「ヤング・フランケンシュタイン」といったクラシックミュージカルそのものをコケにしたようなロック&コメディ・メタミュージカル(いま調べたらみんな1974年前後に製作された作品でした!)や、「オール・ザット・ジャズ」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のような自伝的・不条理バッドエンド・ミュージカルが散発的に注目されただけです。
 ブロードウエイではいまでもミュージカルが主流だというのに、なぜ「映画のミュージカル」のほうはこんなに落ち目になっちゃったんでしょう?
 そこらへんの正確な事情はぼっちにもわかりません。
 1974年当時のぼっちの気分でいうと、ヒリヒリするようなアメリカのリアルな現実を描いたニューシネマの登場のあとでは、歌って踊ってハッピーエンドで終わるミュージカルなんてもうバカバカしくてみる気になれませんでした。
 きっとぼっちを含む多くの人も、「お花畑的極彩色ミュージカル」の世界にはひたれなくなっちゃっていたんでしょうね。
 ところが若き映画作家デイミアン・チャゼルは、すでに過去のものとなったそのMGMミュージカル映画にこだわり抜き、万感の思いをこめて、装いを新たにしたクラシック・ミュージカル「ラ・ラ・ランド」をつくってみせました。
 みなさん。
 このチャゼル君のスタイルって誰かに似ていると思いませんか?
 そう。どことなく1950年代ジャズに執着していたあのセブと似てますよね?
 おそらくチャゼル君はMGMミュージカルを通して「自分自身の映画」を撮っていたんだと思います。
 なんて偏屈で、自信家で、度し難いくらいおバカなロマンチストなんでしょう。
 ぼっちはいささか頑固すぎるこの若い映画作家の無謀な挑戦を支持します。
 貧乳で、ガラガラ声で、どことなく犬のチンみたいなお顔にもみえるエマ・ストーンちゃんもこの映画で大好きになりました。(好きになりすぎて昔エマちゃんと恋人同士だったというアンドリュー・ガーフィールドとかいう野郎のことは大嫌いになりました)
 ついでにいうと若きニコラス・ケイジに「知性&節度」をまぶしたようなライアン君にもさらなる好感を抱いています。
 それにもましてぼっちは、「ラ・ラ・ランド」を通じてアメリカ映画が退蔵しているとんでもない底力を痛感しました。

 この映画を未見なのに最後まで読んでしまったあなた。
 いかがですか?
 なんだか「ラ・ラ・ランド」を観てみたくなってきたでしょう?
 いいんです。
 ネタバレなんか気にせずにぜひ観にいってください。
 とくに若い方は。
 きっとステキな気分になれますから。
 ああ。
 こんなことを書いていたらぼっちはいま無性に若い女子に「ララ・ハラ」しまくりたくなってきちゃいました(笑)。


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Author: 【 こがらし ぼっち 】
官能小説を書いています。

映画のこと。
小説のこと。
そしてどうでもいいような男と女のナイショ話。
そんなことをひそひそ語っていこうと思います。

週1回を目安に更新していくつもりです。

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