ひそひそぼっち

  • 2017-04-11

ぼっちの村上春樹論 ① ──「ハルキャラ」と「キャラ語」について (前編)


 話題の「騎士団長殺し」を読み終わりました。
(といってこのエントリーは「騎士団長殺し」の書評ではありません。書評を渉猟していてここまできてしまった方、ごめんなさい。)
 今作にかぎらずぼっちは村上小説をほぼ全作読んでいます。
(エッセイ&対談本の中にはまだ読んでいないものがいくつかあります)
 デビュー作「風の歌を聴け」が発表されたのが1979年のことですから、「騎士団長殺し」まで40年あまり、村上小説とはかなり長いおつきあいになります。
 しかも「ただ長い」ってだけではありません。
 長編にしろ、短編にしろ、ぼっちは村上小説を何度も何度も読みかえしています。あの大長編「1Q84」ですら、すでに4回以上は読んでいます。(部分的にはもっと数えきれないくらい)
 いったいなぜぼっちはこんなに村上小説を読みかえしてしまうのでしょう?
 もちろん理由はいっぱいあります。
 それを「ひとまとめにしていえ!」といわれたら、

「ううう……。なんで面白いのかよくわからない!」

 こんなうめき声になります。
 つまり面白さの理由をうまく説明できない。
 で、そのもどかしさを晴らそうと読みかえすんだけどやっぱりよくわからない。それでまたしばらくすると村上小説をひらいて(以下同文)──── 延々とそれをくりかえしているわけですね。
 いや、ぼっちは村上小説に散見する「回収されない伏線」や「置き去りにされたままの謎」を指して「わからない」といっているわけではないんです。
 いやいや、それはそれでわからないんですがそういう「宙吊りにされた難解さ」ではなく、もっとあっけらかんと「変なところ」───つまり「とんでもなくすっとんきょうなキャラクター」がいきなり登場するところ、そしてそのキャラの多くがまかに間違えばギャグ漫画に堕しかねない「変な言葉づかい」で会話しつつ深刻で切実なテーマが維持されているところ、───そのことがものすごく不思議なんです。
 村上春樹がつくりだす「すっとんきょうなキャラ」は小説をこわしません。
 むしろ読み進めるにしたがってその小説に馴染んできます。
 それどころかたいへん重要な存在となって、我々に深い印象を残すキャラへと変貌していきます。
 なぜそういうことになるのでしょう?
 それら村上春樹の創作した変なキャラたちを、ここでぼっちは「ハルキャラ」と命名したいと思います。
 そしてその「ハルキャラ」たちはみな「特異な話し言葉」───すなわち「キャラ語」を持っています。
 そこで今回は村上春樹論の入り口として、村上小説に登場する「ハルキャラ」と「キャラ語」を振りかえり、愚考してみることにしました。


① 羊男(「羊をめぐる冒険」)
 小説家の高橋源一郎さんは「『羊をめぐる冒険』はチャンドラーの『ロング・グッドバイ』を下敷きにしている」と洞察しています。
 高橋さんからその指摘をうけた思想家の内田樹さんによると、「ロング・グッドバイ」はフィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」が下敷きになっており、その「ギャッツビー」にもさらに下敷きと思われる作品があるそうです。
(いまwikipediaをみたら村上さんご本人が「(この小説は)『ロング・グッドバイ』を下敷きにして書いた」とカミングアウトしているようです。で、さっそく「ロング・グッドバイ」の「訳者あとがき」を読みかえしてみたら村上さんも「ロング──」と「──ギャッツビー」との共通点を指摘していました。なんだよ、みんな自分でいってんじゃん!)
 それを踏まえて読むとたしかに「僕と鼠」の関係は、「マーロウとテリー・レノックス」の関係と(ニック・キャラウエイとジェイ・ギャッツビーとも)よく似ていますし、なにより「僕」のふるまいにはどことなくマーロウ的な「かっこよさ」が感じられます。
 仕事は受ける。だからといって自分のスタイルまではゆずらない。
 そういうかっこよさですね。
 そんなわけで「僕」もけっこうマーロウに似た「減らず口」です。
 ぼっちは「僕と黒服の男」との、羊をめぐる抜き差しならないやりとりが好きでいまもよくその箇所を読みかえしています。

 「羊男」の登場は、主人公の「僕」が友人の鼠を探して北海道の十二滝村という過疎地の別荘にたどりつき、(そして「耳のガールフレンド」が去った)その翌日の午後のことです。
(いま本を手に取ってわかったんですが、羊男は下巻の、しかも終わり近くにようやく登場していたんですね。もっと早く登場していたと思いこんでいました。「何度も読みかえしている」などと大見得を切っておきながらこのザマです(笑))
 それではまず「僕」と「羊男」の記念すべき初対面の場面をどうぞ。

 ドアを開けると、そこには羊男が立っていた。(略)
 「中に入っていいかな?」と羊男は横を向いたまま早口で僕に訊ねた。何かに腹を立てているようなしゃべり方だった。
 「どうぞ」と僕は言った。 


 「僕」はこんな風にすんなり羊男を家の中に入れてしまいますが、でも読みすすめていくと羊男がそうそう「すんなり応対できる相手でない」ことがわかってきます。
 なにしろその風貌が尋常ではありません。

 羊男は頭からすっぽりと羊の皮をかぶっていた。彼のずんぐりとした体つきはその衣装にぴったりとあっていた。腕と脚の部分はつぎはぎされた作りものだった。頭部を覆うフードもやはり作りものだったが、そのてっぺんについた二本のくるくる巻いた角は本物だった。フードの両側には針金でつけたしたらしい平べったいふたつの耳が水平につきだしていた。顔の上半分を覆った皮マスクと手袋と靴下はお揃いの黒だった。衣装の首から股にかけてジッパーがついていて簡単に着脱できるようになっていた。

 つまり、原野の中の一軒家にいきなり、

羊男3


 こんな変なやつが現れたわけです。
 にもかかわらず「僕」は「驚く」でもなく「警戒する」でもなく、それなりの「礼節」をもって羊男をもてなします。

 「酒が欲しいな」と羊男が言った。僕はまた台所に行って半分ばかり残ったフォア・ローゼズの瓶をみつけ、グラスを二個と氷を持ってきた。
 我々はそれぞれのオン・ザ・ロックを作り、乾杯もせずに飲んだ。


 こんな感じで村上さんは「僕」が本来羊男に感じるであろうはずの違和感や疑心暗鬼、そういう「心理描写」は一切オミットして、淡々と話をまえにすすめていきます。
 つまり、ものすごく普通じゃないことが、当たり前のようにすすんでいくわけです。
 となると我々は、この場所が「普通じゃないことが当たり前に起こるような異界」であることを薄々感知しながら「僕の語り」に耳を澄ませることになります。
 そうして僕と羊男が対座することになっても、2人はちぐはぐな会話しかすることができません。
 羊男の応答がなんだかずれているのです。
 それでも羊男が狂人でも悪人でもなく、というよりむしろ小心で、卑屈で、そのくせウソをつくことが苦手な、つまりかなり不器用な、そしてどことなく哀しみを抱えた男であること、───加えて羊男は「羊にかんする秘密」を抱えており、そのために「僕」と接触をはかりにきたようだ、ということがわかってきます。
 その羊男の「キャラ語」はこんな感じです。

 「さっきは大声をだして悪かったよ」と羊男は小さな声で言った。「ときどきね、その、羊的なものと人間的なものがぶつかってああなっちゃうんだよ。べつに悪気があったわけじゃないんだ。それにあんただっておいらを責めるようなことを言うから」

 自分を「おいら」などと自称するわりに、羊男の言葉づかいはそれほど野卑ではありません。
 っていうかむしろ「控えめ」で「終始ビクついている」ような感じがします。
 で、その「いじけた不安定さ」のようなものが羊男の魅力なんですね。
 のちに羊男は「僕」に「(自分は)徴兵をのがれるために風貌を羊へと偽装した」と告白します。でも、それも「いつの時代の戦争の話」なのかはっきりしません。
 いずれにしても彼が「暴力におびえ、社会から逃げつづけている男」であることだけはたしかなようです。
 つまり羊男は、「鼠」とは違うタイプの「弱さ」を抱えた人物であり、その「弱さつながり」が異界と現世のパイプ役を果たしているんです。
 そのため羊男はクライマックスでとくに重要な役割を担うことになります。

 ちなみに羊男は1982年6月「群像」に掲載された短編「図書館奇譚」にも登場しています。(その後の短編にも羊博士と羊男が何度か登場しています)
 となると村上さんが羊男というキャラを思いついたのは「羊をめぐる冒険」(1982年10月刊行)と「図書館奇譚」のどちらが先だったんでしょう。
 どちらが先にしても「羊男」はその後の村上小説にとても重要なひらめきを与えた「アイデア」となったのではないでしょうか。
(村上さんご本人は羊男を「地霊のような存在」といっているそうです。なんだよ、Wikipediaになんでも載ってるじゃん!)
 村上小説にはちょっと「水木しげる」も入っていそうですね。


② 博士(「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」)
 まずこの小説の登場人物は、誰をとってもみなとってもカラフルで魅力的です。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」の章では、主人公の「私」「太った娘」「博士」「図書館の女の子」「いとこ同士の大男とちび」。「世界の終わり」の章では、主人公の「僕」、とその「影」、「門番」「大佐」「図書館の少女」「発電所の管理人」。人間以外にも「やみくろ」とか「獣」とか「鳥」とか、強い印象を残す生き物が登場し、それらのキャラたちがくっきりと彫琢され、生き生きと描かれています。
 その中でぼっちが「ハルキャラ」として推したいのは「ワンダーランド」の章に登場する「博士」です。
(独特のキャラ語を話す人物は、博士以外に見当たりません)

 この「博士」はどこなく前作「羊をめぐる冒険」に登場する「羊博士」を彷彿させる人物です。
 しかし心に深い絶望を抱えていた「羊博士」と違い、こっちの「博士」は「底が抜けたような明朗さ」をもっています。
 というか明るすぎです。

「私は比較的若い時期から哺乳類の頭蓋に少なからざる興味を持っておって、それでコツコツと骨を集めておったんです。もう四十年近くにもなりますかな。骨というものを理解するには想像以上に長い歳月がかかるのです。そういう意味では肉のついた生身の人間を理解する方がよほど楽だ。私はつくづくそう思うですよ。もっともあんたくらいお若ければ肉そのものの方に興味がおありだと思うが」と言って老人はまたふおっほっほとひとしきり笑った。「私の場合、骨から出てくる音を聴きとるまでにまるまる三十年もかかったですよ。三十年といえばあんた、これは並大抵の歳月ではない」

 この「キャラ語」の特徴をどういえばいいんでしょう?
 まず方言ではないようです。
 いばっているようにも感じません。
 そして「思うですよ」とか「かかったですよ」という「一音抜けた言いまわし」が、我々にとても「軽い」(あるいはちょっと間抜けな)印象を与えています。

 
もしぼっちが「博士」のキャスティングをするとしたら絶対にこの人。51cibQBtLvL.jpg


 この「博士」は、悪でこそないものの、かといって善というわけでもありません。
 いってみれば「人のいいマッドサイエンシスト」(形容矛盾のようですが、本当にそういう人なのです)といったおもむきで、結局のところ科学者としての好奇心に逆らえない人物です。
 早い話、「自分の研究のことしか考えていない人」なんですね。
 博士自身の説明によると、彼は「大脳生理学の分野ではもっとも有能にして最も意欲的な科学者」であり、それを見込まれて「組織(システム)」の研究所に招かれ、「シャッフリング・システムを完成させた」らしいです。
 「シャッフリング」というのは人間の「深層心理のブラックボックス」にデータを入力しておこなう「究極の暗号化技術」のこと。
 計算士である「私」は、博士に騙されて自分の脳を使いその(「組織(システム)」から禁じられている)シャッフリング作業をおこなってしまい───そこから「ワンダーランド」の物語は始まります。
 その「ワンダーランド」の章と対になって展開するのが「世界の終わり」の章です。
 このふたつの「章」を交互に読みすすめていくうち我々にも「世界の終わり」の内容が、「私」の脳内で、つまりデータが刷り込まれた「深層心理のブラックボックス内」で起こっている物語であることがわかってきます。
 博士のせいでとんでもないトラブルに巻き込まれることになった「私」の「表層意識の世界」(ワンダーランド)と、高い壁に囲まれ透徹した哀しみが張り詰めた「深層心理の世界」(世界の終わり)、────このふたつの世界がしだいに共鳴し合い、「ある結節点」にむかってすすんでいく。
 それがこの小説全体のストーリーです。
 つまり「ワンダーランド」と「世界の終わり」は、別々の話ではなく、同じ一人の人間の表層意識と深層心理で展開していく「ひとつの物語」になっているのです。
 はじめて読んだときぼっちは「いったいどうすりゃこんな話が思いつくのかなあ」とただただ感嘆し(感動し)ていただけでした。
 でもその後の村上小説を通読してきたいまなら少しだけみえてきたものもあります。

 とはいえそれを書きだすと長くなりそうなので、(それに本稿のテーマからそれていきそうなので)「ぼっちにみえてきたもの」については別の章で考えてみたいと思います。
 一週間をめどに「後編」をアップするつもりですので、読んでみてくださいね。
 ではまた来週!

  • 2017-04-03

「La La Land」と「あり得たかもしれない過去」について

 話題のミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」を観てきました。
 さっそくその感想を書こうと思い、ネットで映画情報を渉猟していたときです。
 なんだかおかしな噂を仄聞しました。
 現在SNS上で「La La Land harassment」とも呼ぶべき投稿が横行しているらしいのです。
 ───「ラ・ラ・ランド・ハラスメント」
 略して「ララ・ハラ」。
 これがどういう嫌がらせかというと、

 いい年ぶっこいたオヤジがうっかり「ラ・ラ・ランド」を観て感動してしまい、それだけにしときゃあいいものをSNS上で若い女子たちをつかまえては恋愛マスター気取りで、
「カップルでこの映画を観にいくと彼氏が元カノを思いだして破局するぞ!」
 と説教しまくる。

 というたいへんウザくてキモいハラスメントのようです。  
 オヤジってほんとバカですね(笑)。
 ちなみにぼっちも50をすぎたオヤジです。
 でも「説教」だけはいたしません。
 ですから若い女子も安心して読んでくださいね。
(でもラストに言及しているので、これから観ようと思っているかたは観賞後に読んでくださいね)
 それでは始めます。



 今回ネットで初めて知ったのですが、「La La Land」とは、

「she's living in la-la Land……hahaha」
「あの娘はいまララランドに住んでっから。(だからなにいっても無駄じゃね?)」

 というように「実現できるはずのない夢に浮かれまくってタリラリラ状態」を指すスラングのようです。
 監督のデイミアン・チャゼル君は、この「タリラリラ状態の男女」と映画の舞台である「LA(ロサンゼルス)」をかさねてこのタイトルを選んだんですね。
 そのタイトルの含意を汲むように映画は、パッとしない女優志望の女の子と、同じくパッとしない(1950年代のジャズに執着した)ジャズピアニストの恋と夢との顛末を、ただそれだけを描いています。
 でもストーリーはあんがい定型的です。
 アクシデント的な出会いがあり、お互いに反発をおぼえながらも魅かれていき、やがてそれぞれの抱く夢に共感し、励まし合い、一緒に暮らすようになるんだけれど、そのうち夢と恋とがちぐはぐになっていって破局してしまう───という、まあ、青春恋愛映画の黄金パターンを踏んでいます。
 チャゼル君はそんな若い男女の成り行きを「冬」「春」「夏」「秋」「そして5年後の冬」というふうにきっぱり5分割して描いていきます。
 でも、映画全体の印象はそれほどタリラリラではありません。

 この映画に興味を抱いた方々の多くは予告編なんかをみて「ジャズ風にアレンジされた軽快な楽曲に乗って、若くていきのいいいアクターたちが群舞しまくるイケイケミュージカル映画」を想像していたと思います。
 ぼっちもそうでした。
 ところがこの映画は前記構成上の「春」の章で、───つまり目の覚めるような黄色いドレスをまとった(ミア役の)エマ・ストーンちゃんと(セブ役の)ライアン・ゴズリング君が薄暮のマウント・ハリウッド・ドライブでおしゃれにタップ&ダンスを踊り、そのあと閉館後のグリフィス天文台で「無重力ダンス」を舞うファンタジックな場面で、───「イケイケミュージカル的要素」はほとんど消えてしまいます。
 ついでにいうとこの映画の「つかみ」でもある渋滞中の高速道路上での大群舞や、ミアちゃんがブルーのドレスをひらひらさせて歌って踊るパーティー場面も、楽曲の「Another Day of Sun」や「Someone in the Crowd」がかっこいいもんだからついつい見入ってしまいこの映画のはなやかさを強く印象付けますが、それらは(正確にはその後のセブとセブ姉とのやりとりまでをふくめて)本筋のドラマとほとんどコミットしていません。
 つまり冒頭の20分ほどがなくても全然成立しちゃいます。
 早い話、映画的には「無駄なシーン」なのです。
(高速道路群舞は舞台となる街を「ただ説明しているだけ」だし、ミアちゃんのパーティーも雰囲気だけ。とくにミアの友人たちは「ドレスの色目をカラフルにするためだけ」に、セブ姉もセブのキャラと現状をやっぱり「説明するためだけ」に登場させられています)
 つまり冒頭からミアのパーティーまでは、この映画をミュージカル映画にするためだけに撮られたミュージカル場面であり、チェゼル君がどことなくミュージカルというジャンルに「淫している」という印象をぼっちは受けてしまいました。

 2人が出会ったときセブが弾いていた曲「Mia & Sebastian’s Theme」は、美しく果敢なげな哀調を帯びています。
 そしてミアとセブのコール&レスポンス曲である「City of stars」の歌詞の後半はミアが即興で作詞したような体裁になっていて、その曲がやたらといじらしく切ないのです。

(セブ君)♪ この街はぼくを照らしてくれるのかな?
(ミアちゃん)♪ だいじょーぶ♡ あなたはずっとずっとキラキラしてるよ♡

 「春」の章の途中あたりから、その2曲のインストルメンタルがたびたび挿入されるようになり、映画はたいへん「静謐な雰囲気」をただよわせていきます。
 つまり監督のチャゼル君は我々を「これはタリラリラなイケイケミュージカルなんだよーん♪ ヨロピクねー♪」と釣っておきながら、本当のところ「愛をとるか、夢をとるか」という切実な「芸術と愛との関係」を探っているようなのです。
 え?
 マジメか?
 この映画はマジメなのか?
(しかもこの映画はじつは120分以上の長尺なんです)
 おいおい、これじゃぜんぜんタリラリラじゃねーじゃん!
「La La Land」じゃねーじゃん!

 ざけんな、チャゼルよ!

 そういいたくなった方の気持ちもわからなくもありません。
 でもね。
 それはそれとしてチャゼル君ってなかなか手ごわい監督だとぼっちは思いました。
 我々はかっこいい楽曲とともに「タリラリラ~♪」っと結ばれてしまったセブとミアに、すでに好感を抱いてしまっています。「できればさえないこの2人にハッピーになって欲しい」 と心の中で祈っています。
 ですからその後、この2人が夢を巡ってジタバタするさまを息を吞むようにしてみつめることになります。 
 ぼっちがなにより感心してしまったのは、チャゼル君がこの2人の「別れの場面」をスパっと切ってしまっていたところです。
 チャゼル君はなぜこの映画でもっともドラマチックな展開が予想される「別れの場面」を削除してしまったのでしょう?

 ミアは、金のためにそれまで執着していた1950年代のジャズを捨てて電子楽器を奏でるようになったセブの変節に納得できません。
 でもそれはセブがミアのために少しでも金を稼ごうと思って始めたことでもあるのです。
 口論の末、セブはついにミアにこう吐き棄てます。
「君は優越感に浸るために売れないぼくと付き合っていたんだ!」
 セブ。
 おい、セブよ。
 それをいったらおしまいだぞ。
 だいいちミアはそんな女の子じゃない。
 君はそのことを一番よくわかっていたはずじゃないか!
 案の定、傷ついたミアの大きな(大きすぎる)グリーンの瞳にみるみる涙があふれていきます。
(ぼっちはミアちゃんがあんまりかわいそうで、デリヘルさんが印刷されたポケットティッシュを2枚も使って涙を拭いました。)
 といってこれが「別れの場面」ではありません。
 その後、セブは故郷に去ったミアを追いかけて、最後のオーディションを受けるよう説得します。そうしてそのオーディションを受けることとなったミアは、面接の最中に女優として「不思議なインスピレーション」を授かることになります。
 面接後、憑き物が落ちたようなミアとセブとのささやかな励まし合いがあり、(もしオーディションに受かったらミアは長期間パリに渡って撮影することになります)それで「秋」の章はあっさり終わってしまいます。
 そして映画は最終章である「5年後の冬」へと突入していくわけなのですが─────。

 5年後のミアは、撮影所内のカフェ店員も息をのむような大スターとなっています。
 帰宅するとそこは5年まえのアパートとは段違いの大邸宅です。
 しかもそこには年上の(プロデューサー風の)夫と乳飲み子が待っています。
 このときなって我々はようやく「ああ、ミアはセブと別れちゃったんだ」と確信するにいたります。
 でもどうして?
 そう思っても監督のチャゼル君はきっぱりとその「説明」を拒否しています。
 となると我々はすでに提示された情報を頼りに、自分なりに2人が別れた理由を推察するしかありません。

 おそらくミアはあのオーディションに合格し「パリで撮った映画」で才能を開花させ、スターへの階段を駆け上ったんだろう。
(もちろんそれはセブの「助言」があったからです)
 でも、売れたら売れたでセブとの間に「格差」が生じてしまったのかもしれない。
 あるいはミアは女優業を優先させるため、変節したセブを捨ててしまったのかもしれない。
 いずれにしてもミアは正攻法で自分の夢をつかみとっている。
 でもセブは夢に対して自分をいつわっていた。
 セブはそのやましさに耐え切れなくなって自分のほうから去ったのかもしれない。

 我々があれこれそんなことを考えているうち、映画内のミアはたまたま夫婦で通りかったロスアンゼルスの街角でなつかしい音楽を耳にします。
 その店の壁には「ミア主演の新作ポスター」が貼られ、かつてミアがセブのためにロゴデザインした「セブス(セブの店)」の看板がかけられています。
 もちろんここはセブの店であり、同時にセブがミアへの想いをひきづっていることが暗示されています。
 セブはセブで、セブなりの(ささやかな)夢を実現させていた────。
 ミアは導かれるようにその店の中にはいっていきます。
 そこは(いささか時代遅れの)スタンダードジャズを生演奏している店で、思った通りセブはその店のオーナーとして舞台に登場します。
 そうしてミアとセブはその店の客とオーナーとして無言の再会を果たすことになり、───見つめあう2人の顏に衝撃と動揺が走ります。

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 そのうちセブはゆっくりとピアノのまえに坐り、ミアに語りかけるようにあの曲───2人が出会ったときに自分が弾いていた曲、「Mia & Sebastian’s Theme」を奏で始めるのです。
 そして、その演奏をきっかけにして、映画はほとばしるように2人の「あり得たかもしれない過去」を映し始めます。

 もし初めて出会ったとき、直感にしたがってかたく抱き合いキスを交わしていたら2人はいまとは違う人生を歩んでいたのかもしれない。
 二人はキラキラしたLa La Landで愛を蕩尽し、やがて結婚して子供をもうけ、いまもハッピーに暮らしていたのかもしれない。

 我々はまず(チャゼル君によって)「2人が別れた理由」を自前で想像させられています。
 そのせいでこのときの映像が「自前で想像したミアとセブの別れの場面」に、痛切な「上書き」を迫ってきます。
 つまり「あり得たかもしれない過去映像」が、苦い悔恨を呼び起こします。
 なにしろ「2人が別れた理由」を自前でつくっているわけですから、「悔恨」もまた「まるで自分で体験している」みたいに錯覚してしまうわけです。
 「もしもあのとき、ああしていれば、おれたち(わたしたち)はいま………?」という疑問符がグサグサと胸に刺さっていたたまれません。
 つまり我々はわざわざ「別れの場面」を削除したチャゼル君の術中に、まんまとはめられてしまっているわけです。

 といっておいて水を差すようでなんなんですが。
 チャゼル君が最後に「決め球」みたいに投げ込んできたこの「あり得たかもしれない過去映像」って映画術としてそれほど斬新な方法なのでしょうか?
 これまでだって「あり得たかもしれない過去問題」は、映画(とくにタイムスリップもの)や小説で何度も何度も、(それこそ飽き飽きするくらい)扱われてきました。
 方法としてこれはかなり使い古された手だといわざるを得ません。
 すれっからしのぼっちが、そんなやわな作戦に乗るはずがありません。
 にもかかわらずぼっちは、この場面であえなく涙腺が決壊し、年甲斐もなくしくしく泣きじゃくってしまいました。
(サラ金会社が印刷されたポケットティッシュを4枚も使って涙を拭ってしまったくらいです)
 となるとぼっちは、映画「ラ・ラ・ランド」のいったい「なに」に急所を突かれてしまったのでしょう。
 チャゼル君はこの映画に対するインタビューでこんなことを述べています。
 
「愛について語るとき、愛自体が主人公の2人よりも大きな存在でなければいけないとぼくは思う。2人が一緒にいるいないに関係なく、愛はまるで3番目の登場人物のようにそこにあり続けるんだ。現実とは全く別の次元でね。主人公の2人の関係が終わってしまったとしても、愛はそこに永遠に存在するということ。ぼくはそれが美しいと思う。」

 すでにハートが角質化してしまっているぼっちは、チャゼル君のように「当人たちが別れてしまったあとでも、現実とは別の次元で永遠に存在し続ける愛の存在」なんか、なーんも信じていません。
 たとえば昔付き合っていた彼女と数年ぶりに再会したときなど、ぼっちは「かつて存在していたかもしれない愛」が、いかに不確かででたらめで不誠実なものだったのかを何度も痛感させられています。
 ぼっちが相思相愛だとかたく信じていた時期、じつは相手はべつの男に気をとられていたり、なんなら元カレと通じていたり、下手すりゃやっちゃっていたり、こっちが絶好調だった夜はしばしば相手にとっては最悪の夜で、忘れられないビーチフルな思い出を相手は完全に忘却しており、またその逆のケースもあって、いまさら調子よく「永遠に存在している愛」など説かれてもその手は桑名の焼ハマグリです。
 そうなんです。
 この現実世界では「永遠に存在する愛」などなかなか見つけられるものじゃないんです。
 きっとチャゼル君だってそんなことはよくわかっているんだと思います。
 でも、だからこそチャゼル君は映画の中に、───この「La La Land」の世界に、その愛を「リアルに目に見える存在」として描きだしてみせたかったのではないでしょうか。
 芸術とひきかえに誰かと別れてしまったとしても、その愛は残る。
 それを描くことによって、もしかしたらチャゼル君自身も救われたかったのかもしれません。

 ためしにみなさん。
 ここでもう一度、映画の中で「あり得たかもしれない過去」が投射され始める場面を思いだしてみてください。
 エマとセブがひとことも言葉を交わさないまま、「出会いの曲」をきっかけにして始まるあの映像────「あり得たかもしれない過去映像」は、かつて恋人同士だったセブとミアが、

 「いままさに2人で同時にみている夢」

 のように感じませんでしたか?
(もちろんチャゼル君は観客がそう感じるようにこの場面を演出したのだと思います)
 数年ぶりに再会した男女が、「同時に同じ夢をみる」なんてことは現実には起こりません。
 それが「悔恨を含む夢」であったとしても、そんなことは起こらないんです。
 少なくともぼっちには、

  断固として! 絶対に! ただの1度も、起こりませんでした!

 にもかかわらずセブとミアにはそういうケミストリーがふいに起こったのです。
 しかも我々は「2人が別れた理由」を自前で想像させられたせいで、まるでそれが自分自身に起こった「ミラクル体験」のように感じとってしまったんですね。
(で、この瞬間、オヤジたちはチャゼル君にだまされて恋愛マスターに変身してしまったんですね)
 つまりこのときの「過去映像」にはほろ苦さとミラクルが、めくるめくように乱反射していたのだと思います。
 だからこの映画の結末は悔恨に胸をかきむしられつつ、でも同時にそれが「あり得ない愛を確認する奇跡的なハッピーエンド」にもなっていて、我々はその「ほろ苦さとミラクルとの振幅」に心を揺さぶられてしまったのですね。

 最後に少しだけミュージカル映画についての私見を述べて終わりにしたいと思います。
 ぼっちの極私的アメリカ映画史にしたがえば、ミュージカル映画というジャンルは1974年に「ザッツ・エンターテイメント」という「MGMミュージカル映画のアンソロジー」が公開された段階で、アメリカ映画界からひっそりと引退したのだと思っています。
 きっと「ザッツ・エンターテイメント」というその作品が、かつてとびきり華やかな大活躍を果たしたMGMミュージカル映画群を表敬し、記憶しておくためにはかられた引退セレモニーのような役割をはたしてしまったんですね。振りかえると、この映画の公開以降、人々のミュージカルに対する期待値が急速に冷え込んでいったような気がします。
 スコセッシもコッポラもミュージカルに挑戦しましたが成功しなかったし(というかどちらも作品の出来とは関係なく興業的に大失敗しました)、あとは「ロッキー・ホラーショー」とか「ファントム・オブ・パラダイス」とか「ヤング・フランケンシュタイン」といったクラシックミュージカルそのものをコケにしたようなロック&コメディ・メタミュージカル(いま調べたらみんな1974年前後に製作された作品でした!)や、「オール・ザット・ジャズ」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のような自伝的・不条理バッドエンド・ミュージカルが散発的に注目されただけです。
 ブロードウエイではいまでもミュージカルが主流だというのに、なぜ「映画のミュージカル」のほうはこんなに落ち目になっちゃったんでしょう?
 そこらへんの正確な事情はぼっちにもわかりません。
 1974年当時のぼっちの気分でいうと、ヒリヒリするようなアメリカのリアルな現実を描いたニューシネマの登場のあとでは、歌って踊ってハッピーエンドで終わるミュージカルなんてもうバカバカしくてみる気になれませんでした。
 きっとぼっちを含む多くの人も、「お花畑的極彩色ミュージカル」の世界にはひたれなくなっちゃっていたんでしょうね。
 ところが若き映画作家デイミアン・チャゼルは、すでに過去のものとなったそのMGMミュージカル映画にこだわり抜き、万感の思いをこめて、装いを新たにしたクラシック・ミュージカル「ラ・ラ・ランド」をつくってみせました。
 みなさん。
 このチャゼル君のスタイルって誰かに似ていると思いませんか?
 そう。どことなく1950年代ジャズに執着していたあのセブと似てますよね?
 おそらくチャゼル君はMGMミュージカルを通して「自分自身の映画」を撮っていたんだと思います。
 なんて偏屈で、自信家で、度し難いくらいおバカなロマンチストなんでしょう。
 ぼっちはいささか頑固すぎるこの若い映画作家の無謀な挑戦を支持します。
 貧乳で、ガラガラ声で、どことなく犬のチンみたいなお顔にもみえるエマ・ストーンちゃんもこの映画で大好きになりました。(好きになりすぎて昔エマちゃんと恋人同士だったというアンドリュー・ガーフィールドとかいう野郎のことは大嫌いになりました)
 ついでにいうと若きニコラス・ケイジに「知性&節度」をまぶしたようなライアン君にもさらなる好感を抱いています。
 それにもましてぼっちは、「ラ・ラ・ランド」を通じてアメリカ映画が退蔵しているとんでもない底力を痛感しました。

 この映画を未見なのに最後まで読んでしまったあなた。
 いかがですか?
 なんだか「ラ・ラ・ランド」を観てみたくなってきたでしょう?
 いいんです。
 ネタバレなんか気にせずにぜひ観にいってください。
 とくに若い方は。
 きっとステキな気分になれますから。
 ああ。
 こんなことを書いていたらぼっちはいま無性に若い女子に「ララ・ハラ」しまくりたくなってきちゃいました(笑)。


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 【 こがらし ぼっち 】

Author: 【 こがらし ぼっち 】
官能小説を書いています。

映画のこと。
小説のこと。
そしてどうでもいいような男と女のナイショ話。
そんなことをひそひそ語っていこうと思います。

週1回を目安に更新していくつもりです。

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