ひそひそぼっち

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  • 2017-04-11

ぼっちの村上春樹論 ① ──「ハルキャラ」と「キャラ語」について (前編)


 話題の「騎士団長殺し」を読み終わりました。
(といってこのエントリーは「騎士団長殺し」の書評ではありません。書評を渉猟していてここまできてしまった方、ごめんなさい。)
 今作にかぎらずぼっちは村上小説をほぼ全作読んでいます。
(エッセイ&対談本の中にはまだ読んでいないものがいくつかあります)
 デビュー作「風の歌を聴け」が発表されたのが1979年のことですから、「騎士団長殺し」まで40年あまり、村上小説とはかなり長いおつきあいになります。
 しかも「ただ長い」ってだけではありません。
 長編にしろ、短編にしろ、ぼっちは村上小説を何度も何度も読みかえしています。あの大長編「1Q84」ですら、すでに4回以上は読んでいます。(部分的にはもっと数えきれないくらい)
 いったいなぜぼっちはこんなに村上小説を読みかえしてしまうのでしょう?
 もちろん理由はいっぱいあります。
 それを「ひとまとめにしていえ!」といわれたら、

「ううう……。なんで面白いのかよくわからない!」

 こんなうめき声になります。
 つまり面白さの理由をうまく説明できない。
 で、そのもどかしさを晴らそうと読みかえすんだけどやっぱりよくわからない。それでまたしばらくすると村上小説をひらいて(以下同文)──── 延々とそれをくりかえしているわけですね。
 いや、ぼっちは村上小説に散見する「回収されない伏線」や「置き去りにされたままの謎」を指して「わからない」といっているわけではないんです。
 いやいや、それはそれでわからないんですがそういう「宙吊りにされた難解さ」ではなく、もっとあっけらかんと「変なところ」───つまり「とんでもなくすっとんきょうなキャラクター」がいきなり登場するところ、そしてそのキャラの多くがまかに間違えばギャグ漫画に堕しかねない「変な言葉づかい」で会話しつつ深刻で切実なテーマが維持されているところ、───そのことがものすごく不思議なんです。
 村上春樹がつくりだす「すっとんきょうなキャラ」は小説をこわしません。
 むしろ読み進めるにしたがってその小説に馴染んできます。
 それどころかたいへん重要な存在となって、我々に深い印象を残すキャラへと変貌していきます。
 なぜそういうことになるのでしょう?
 それら村上春樹の創作した変なキャラたちを、ここでぼっちは「ハルキャラ」と命名したいと思います。
 そしてその「ハルキャラ」たちはみな「特異な話し言葉」───すなわち「キャラ語」を持っています。
 そこで今回は村上春樹論の入り口として、村上小説に登場する「ハルキャラ」と「キャラ語」を振りかえり、愚考してみることにしました。


① 羊男(「羊をめぐる冒険」)
 小説家の高橋源一郎さんは「『羊をめぐる冒険』はチャンドラーの『ロング・グッドバイ』を下敷きにしている」と洞察しています。
 高橋さんからその指摘をうけた思想家の内田樹さんによると、「ロング・グッドバイ」はフィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」が下敷きになっており、その「ギャッツビー」にもさらに下敷きと思われる作品があるそうです。
(いまwikipediaをみたら村上さんご本人が「(この小説は)『ロング・グッドバイ』を下敷きにして書いた」とカミングアウトしているようです。で、さっそく「ロング・グッドバイ」の「訳者あとがき」を読みかえしてみたら村上さんも「ロング──」と「──ギャッツビー」との共通点を指摘していました。なんだよ、みんな自分でいってんじゃん!)
 それを踏まえて読むとたしかに「僕と鼠」の関係は、「マーロウとテリー・レノックス」の関係と(ニック・キャラウエイとジェイ・ギャッツビーとも)よく似ていますし、なにより「僕」のふるまいにはどことなくマーロウ的な「かっこよさ」が感じられます。
 仕事は受ける。だからといって自分のスタイルまではゆずらない。
 そういうかっこよさですね。
 そんなわけで「僕」もけっこうマーロウに似た「減らず口」です。
 ぼっちは「僕と黒服の男」との、羊をめぐる抜き差しならないやりとりが好きでいまもよくその箇所を読みかえしています。

 「羊男」の登場は、主人公の「僕」が友人の鼠を探して北海道の十二滝村という過疎地の別荘にたどりつき、(そして「耳のガールフレンド」が去った)その翌日の午後のことです。
(いま本を手に取ってわかったんですが、羊男は下巻の、しかも終わり近くにようやく登場していたんですね。もっと早く登場していたと思いこんでいました。「何度も読みかえしている」などと大見得を切っておきながらこのザマです(笑))
 それではまず「僕」と「羊男」の記念すべき初対面の場面をどうぞ。

 ドアを開けると、そこには羊男が立っていた。(略)
 「中に入っていいかな?」と羊男は横を向いたまま早口で僕に訊ねた。何かに腹を立てているようなしゃべり方だった。
 「どうぞ」と僕は言った。 


 「僕」はこんな風にすんなり羊男を家の中に入れてしまいますが、でも読みすすめていくと羊男がそうそう「すんなり応対できる相手でない」ことがわかってきます。
 なにしろその風貌が尋常ではありません。

 羊男は頭からすっぽりと羊の皮をかぶっていた。彼のずんぐりとした体つきはその衣装にぴったりとあっていた。腕と脚の部分はつぎはぎされた作りものだった。頭部を覆うフードもやはり作りものだったが、そのてっぺんについた二本のくるくる巻いた角は本物だった。フードの両側には針金でつけたしたらしい平べったいふたつの耳が水平につきだしていた。顔の上半分を覆った皮マスクと手袋と靴下はお揃いの黒だった。衣装の首から股にかけてジッパーがついていて簡単に着脱できるようになっていた。

 つまり、原野の中の一軒家にいきなり、

羊男3


 こんな変なやつが現れたわけです。
 にもかかわらず「僕」は「驚く」でもなく「警戒する」でもなく、それなりの「礼節」をもって羊男をもてなします。

 「酒が欲しいな」と羊男が言った。僕はまた台所に行って半分ばかり残ったフォア・ローゼズの瓶をみつけ、グラスを二個と氷を持ってきた。
 我々はそれぞれのオン・ザ・ロックを作り、乾杯もせずに飲んだ。


 こんな感じで村上さんは「僕」が本来羊男に感じるであろうはずの違和感や疑心暗鬼、そういう「心理描写」は一切オミットして、淡々と話をまえにすすめていきます。
 つまり、ものすごく普通じゃないことが、当たり前のようにすすんでいくわけです。
 となると我々は、この場所が「普通じゃないことが当たり前に起こるような異界」であることを薄々感知しながら「僕の語り」に耳を澄ませることになります。
 そうして僕と羊男が対座することになっても、2人はちぐはぐな会話しかすることができません。
 羊男の応答がなんだかずれているのです。
 それでも羊男が狂人でも悪人でもなく、というよりむしろ小心で、卑屈で、そのくせウソをつくことが苦手な、つまりかなり不器用な、そしてどことなく哀しみを抱えた男であること、───加えて羊男は「羊にかんする秘密」を抱えており、そのために「僕」と接触をはかりにきたようだ、ということがわかってきます。
 その羊男の「キャラ語」はこんな感じです。

 「さっきは大声をだして悪かったよ」と羊男は小さな声で言った。「ときどきね、その、羊的なものと人間的なものがぶつかってああなっちゃうんだよ。べつに悪気があったわけじゃないんだ。それにあんただっておいらを責めるようなことを言うから」

 自分を「おいら」などと自称するわりに、羊男の言葉づかいはそれほど野卑ではありません。
 っていうかむしろ「控えめ」で「終始ビクついている」ような感じがします。
 で、その「いじけた不安定さ」のようなものが羊男の魅力なんですね。
 のちに羊男は「僕」に「(自分は)徴兵をのがれるために風貌を羊へと偽装した」と告白します。でも、それも「いつの時代の戦争の話」なのかはっきりしません。
 いずれにしても彼が「暴力におびえ、社会から逃げつづけている男」であることだけはたしかなようです。
 つまり羊男は、「鼠」とは違うタイプの「弱さ」を抱えた人物であり、その「弱さつながり」が異界と現世のパイプ役を果たしているんです。
 そのため羊男はクライマックスでとくに重要な役割を担うことになります。

 ちなみに羊男は1982年6月「群像」に掲載された短編「図書館奇譚」にも登場しています。(その後の短編にも羊博士と羊男が何度か登場しています)
 となると村上さんが羊男というキャラを思いついたのは「羊をめぐる冒険」(1982年10月刊行)と「図書館奇譚」のどちらが先だったんでしょう。
 どちらが先にしても「羊男」はその後の村上小説にとても重要なひらめきを与えた「アイデア」となったのではないでしょうか。
(村上さんご本人は羊男を「地霊のような存在」といっているそうです。なんだよ、Wikipediaになんでも載ってるじゃん!)
 村上小説にはちょっと「水木しげる」も入っていそうですね。


② 博士(「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」)
 まずこの小説の登場人物は、誰をとってもみなとってもカラフルで魅力的です。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」の章では、主人公の「私」「太った娘」「博士」「図書館の女の子」「いとこ同士の大男とちび」。「世界の終わり」の章では、主人公の「僕」、とその「影」、「門番」「大佐」「図書館の少女」「発電所の管理人」。人間以外にも「やみくろ」とか「獣」とか「鳥」とか、強い印象を残す生き物が登場し、それらのキャラたちがくっきりと彫琢され、生き生きと描かれています。
 その中でぼっちが「ハルキャラ」として推したいのは「ワンダーランド」の章に登場する「博士」です。
(独特のキャラ語を話す人物は、博士以外に見当たりません)

 この「博士」はどこなく前作「羊をめぐる冒険」に登場する「羊博士」を彷彿させる人物です。
 しかし心に深い絶望を抱えていた「羊博士」と違い、こっちの「博士」は「底が抜けたような明朗さ」をもっています。
 というか明るすぎです。

「私は比較的若い時期から哺乳類の頭蓋に少なからざる興味を持っておって、それでコツコツと骨を集めておったんです。もう四十年近くにもなりますかな。骨というものを理解するには想像以上に長い歳月がかかるのです。そういう意味では肉のついた生身の人間を理解する方がよほど楽だ。私はつくづくそう思うですよ。もっともあんたくらいお若ければ肉そのものの方に興味がおありだと思うが」と言って老人はまたふおっほっほとひとしきり笑った。「私の場合、骨から出てくる音を聴きとるまでにまるまる三十年もかかったですよ。三十年といえばあんた、これは並大抵の歳月ではない」

 この「キャラ語」の特徴をどういえばいいんでしょう?
 まず方言ではないようです。
 いばっているようにも感じません。
 そして「思うですよ」とか「かかったですよ」という「一音抜けた言いまわし」が、我々にとても「軽い」(あるいはちょっと間抜けな)印象を与えています。

 
もしぼっちが「博士」のキャスティングをするとしたら絶対にこの人。51cibQBtLvL.jpg


 この「博士」は、悪でこそないものの、かといって善というわけでもありません。
 いってみれば「人のいいマッドサイエンシスト」(形容矛盾のようですが、本当にそういう人なのです)といったおもむきで、結局のところ科学者としての好奇心に逆らえない人物です。
 早い話、「自分の研究のことしか考えていない人」なんですね。
 博士自身の説明によると、彼は「大脳生理学の分野ではもっとも有能にして最も意欲的な科学者」であり、それを見込まれて「組織(システム)」の研究所に招かれ、「シャッフリング・システムを完成させた」らしいです。
 「シャッフリング」というのは人間の「深層心理のブラックボックス」にデータを入力しておこなう「究極の暗号化技術」のこと。
 計算士である「私」は、博士に騙されて自分の脳を使いその(「組織(システム)」から禁じられている)シャッフリング作業をおこなってしまい───そこから「ワンダーランド」の物語は始まります。
 その「ワンダーランド」の章と対になって展開するのが「世界の終わり」の章です。
 このふたつの「章」を交互に読みすすめていくうち我々にも「世界の終わり」の内容が、「私」の脳内で、つまりデータが刷り込まれた「深層心理のブラックボックス内」で起こっている物語であることがわかってきます。
 博士のせいでとんでもないトラブルに巻き込まれることになった「私」の「表層意識の世界」(ワンダーランド)と、高い壁に囲まれ透徹した哀しみが張り詰めた「深層心理の世界」(世界の終わり)、────このふたつの世界がしだいに共鳴し合い、「ある結節点」にむかってすすんでいく。
 それがこの小説全体のストーリーです。
 つまり「ワンダーランド」と「世界の終わり」は、別々の話ではなく、同じ一人の人間の表層意識と深層心理で展開していく「ひとつの物語」になっているのです。
 はじめて読んだときぼっちは「いったいどうすりゃこんな話が思いつくのかなあ」とただただ感嘆し(感動し)ていただけでした。
 でもその後の村上小説を通読してきたいまなら少しだけみえてきたものもあります。

 とはいえそれを書きだすと長くなりそうなので、(それに本稿のテーマからそれていきそうなので)「ぼっちにみえてきたもの」については別の章で考えてみたいと思います。
 一週間をめどに「後編」をアップするつもりですので、読んでみてくださいね。
 ではまた来週!

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 【 こがらし ぼっち 】

Author: 【 こがらし ぼっち 】
官能小説を書いています。

映画のこと。
小説のこと。
そしてどうでもいいような男と女のナイショ話。
そんなことをひそひそ語っていこうと思います。

週1回を目安に更新していくつもりです。

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